マルクス・アウレリウス『自省録』第二巻1節より抜粋、意訳
朝が来たら、自分にこう言い聞かせよう
今日、私は次のような人と出会うこともあるだろうと。
他人のことに干渉してくる者、恩知らずの者、傲慢な者、狡猾な者、嫉妬深い者、孤立を好む利己的な者。 彼らは、善とは何か、悪とは何か――その本性を知らないからそうなっているのだ。
私は彼らと違って知っている。 善きものとは、ただ美しく気高いもののことであり、悪しきものとは、つねに醜く恥ずべきものなのだと。
そして、それを知らぬ者たちもまた、私の同胞である。なぜなら、理性的で神的なる部分を少なからず持っており、私と共通する部分もあるからだ。
だから、彼らが何を為そうと、それによって私が傷つくことはない。 私が恥をかかされることも、醜い行いを強いられることも、彼らにはできない。それは、私が決められることだからだ。 私は、同胞である彼らを憎むことはできず、怒ることできない。
そう、私たち人間は、助け合うために生まれてきたのだ。それが自然な状態なのだ。両足が、両手が、上の歯と下の歯が、それぞれ合わさることで力を発揮するように、互いに反発し合うのではなく、助け合うことが本性である。怒りや憎しみこそが、不自然なのだ。
エピクテトス『提要』より抜粋、意訳
世の中のあらゆる事柄は、私たちの力に及ぶもの(コントロールできるもの)と、そうでないもの(コントロールできないもの)に分けられる。
私たちの力に及ぶものは、判断、意欲、欲求、忌避、一言でいえば、私たち自身の心の働きで決まるすべてのものである。私たちの力に及ばないものは、肉体、財産、評判、官職、一言でいえば、私たち自身の心の働きでは決まらないすべてのものである。
私たちの力に及ぶものは、本質的に自由であり、妨げられず、邪魔されない。
しかし、私たちの力に及ばないものは、無力であり、妨げられることがあり、強制的であり、他人に属するものである。
よって、もし君が、私たちの力に及ばない他人に属するものを、自分自身のものとみなしてしまったら、君は行く手を阻まれ、嘆き、心を乱し、運命や他人を非難することになるだろう。
しかし、自分自身のものだけを自分自身のものと考え、他人に属するものをその名の通り他人のものとみなすなら、誰も君を強制することはできず、誰も君を邪魔することはできない。
君は誰をも非難せず、自分の意志に反することは何一つ行わず、誰も君を傷つけることはできず、君には敵もいなくなる。なぜなら、君は何の害も受けないからだ。害を受けたかどうかは、君の心が決められる。
大きな目標を目指すなら、君はそれ相応の熱意をもって取り組まねばならない。ある事柄は完全に捨て去り、ある事柄は当面の間、脇に置いておく必要がある。
あらゆる不快な心のざわつきに対して、「この心のざわつきはただの心のざわつきであって、他者や解釈が生み出した想像のものであり、決して実際に存在するものではない」と直ちに言い聞せるよう努めるのがよい。
次に、自分が持っている規則、つまり「それは私たちの力に及ぶものか、そうでないか」に照らして吟味せよ。
もしそれが「私たちの力に及ばない事柄」に関するものであるなら、「それは私には何の関係もない」という言葉を即座に投げかけるがいい。
エピクテトス『提要』第5節より抜粋、意訳
人間を不安にさせるのは、物事そのものではなく、その物事に関する「判断(考え方)」である。
例えば、「死」そのものは決して恐ろしいものではない。
もし恐ろしいものなら、ソクラテスはそう感じたはずだ
死を恐ろしいとみなす「私たちの判断」こそが、死を恐ろしいものにしている。
したがって、私たちが行き詰まったり、心を乱されたり、悲しんだりする時、決してそれは他人や環境のせいではない。自分自身の判断なのだ。
無教養な者は、自分が不幸なのを他人のせいにする。
学び始めた者は、それを自分のせいにする。
そして、真に教養ある者は、他人のせいにも自分のせいにもせず、ただ事実を事実として受け止めるのである。